裏のプロフィール

My World

・ 10.2匹の猫(ミミとココ) ―グリーフケアの大切さ―

わたしの分岐点にはいつもミミとココがいました。母と父を看取った日、山口で初めての一人暮らしを始めたとき、大阪で大学院に入学したとき、そして、仕事のために新潟や大分での生活が始めたとき。

わたしを心から必要としてくれるミミとココの存在に癒されていました。そして、グリーフケアの知識はあったけど、ミミとココの看取りを経験したことでグリーフケアの大切さについて知ることができました。ミミとココを介護した日々があったから、その死を穏やかに受け入れることができたのだと思います。

1.ミミとの出会い ーミミのトラウマー

ある夜、母が近所の線路に子猫がいるので拾いに行こうと言いだしました。そこには数匹の子猫がいました。わたしが線路に入るとほとんどの子猫は逃げ、1匹だけ抱き上げることができました。その子猫とわたしたちは一緒に帰ってきました。帰ったときにわかったのですが、その子猫の頭に大きなコブがあり、ミルクも水も自分で飲もうとしないぐらい弱っていました。母はスポイドでミルクを飲ませ、タオルに包んでその猫を寝かせました。ぐったりとした子猫を見て、母は一晩の命だと思ったみたいです。次の朝、すぐに動物病院に連れて行きました。少しずつ回復し自分でミルクを飲むことができるようになりました。母は「ミミ」と名付けました。実は雄だったのですが…。

ミミが歩くことができるまで回復したとき、円を描くように同じ場所をクルクルと歩きました。頭に傷を負っていたので、いろいろな後遺症が残り介護が必要になるのだろうと思い、最初は少し厄介な子猫を拾ってきたと思いました。それでもミミの快復力はすごく、ご飯を自分で食べるようになり、排泄も失敗することなく、走って遊ぶことができるようになりました。

ミミは母親のベッドで一緒にお昼寝をするのが大好きでした。夜は眠たくなれば「一緒に寝よう」とわたしを誘いにきました。昼間、ミミは母親とずっと一緒だったので、お留守番が大嫌いでした。母が長い時間家を空けた日の夜は、ミミの機嫌が悪く「一人にした、一人にした」と怒っているような鳴き方をしていました。

甘えん坊のミミは、いつもわたしたち家族の側にいました。しかし、父親以外の男性をとても怖がりました。男性の声が聞こえると隠れて出てきませんでした。きっと、男性にいじめられたことが我が家に来たときの「頭のコブ」の原因だったのではないでしょうか。どれほど怖い経験をしたのか、それがトラウマとなっているのだと思いました。

2.リュウマチだった母親の障害感

わたしが小学校3年生頃に母親はリュウマチを発症しました。その当時は今のように治療も発達していませんでした。母はリュウマチのために、手足が変形し長い距離を歩くことも階段を上ることも大変でした。スーパーに行っても重いものを持つことができません。雨の日などは痛みが強く、昼間もベッドで横になっていることがありました。

母親は昭和4年生まれです。そのため、昔の障害感を持っていました。母は若いわたしたちが障害をもった母親と歩くことが、恥ずかしいだろうと思っていたみたいです。そして、自分に障害があるので、娘達の縁談に悪い影響があるのではないかと真剣に考えていたみたいです。母がそんなことを考えていたのだと聞いたときには驚きました。

ミミは怪我の後遺症で腰が悪く、椅子に座っているわたしの膝に飛び乗ることはできませんでした。誰かの膝に乗りたいときには、その人の足下で上を見上げて鳴くと「抱っこか?」といって抱き上げてもらえます。それでミミは満足を得ることができました。まだ、社会福祉のことを学ぶ前でしたが、母親の障害があることへの悩みを知り、他の猫と比べて悩むことはなく楽しく暮らしているミミがうらやましくなりました。

3.ココとの出会い ― ミミの決断 ―

ミミはいつもわたしか母と一緒に寝ていました。わたしの寝るのが遅いときも、わたしが寝るのをずっと待っていました。父は慢性気管支炎のため、ミミが父の部屋に入ることは禁止していました。わたしが33歳の1月に母は亡くなりました。その当時、わたしは歯科衛生士の専門学校に勤めていました。その学校では夏に1週間の海外研修があり、母が亡くなった年の引率が決まっていました。私が出張している間、ミミは一人で寝ることになります。1週間もひとりで寝るのはストレスだろうなと心配でした。

母が亡くなった年の春、我が家に子猫がやってきました。庭で子猫の鳴き声がするので出てみると、ミミがその子猫の首元を甘噛みしていました。しばらくして、ミミはその子猫を自分の食事の場所に連れて行き、その子猫がご飯を食べている間自分はご飯を食べないで横で待っていました。ミミはその子猫と一緒に暮らすことを決めたみたいでした。わたしは「ミミの子分」という意味で「ココ」と名付けました。

我が家にきてすぐのココは、わたしが近づいたときには逃げることもありました。しかし、ミミのことをお母さんだと思ったのか、ミミのお乳を吸いながら寝ていました。ミミは雄なのですがココにお乳を吸わせていました。ミミは夜に寝るときには、わたしの布団に入ってきます。するとミミと一緒に寝たいココも入ってきます。わたしにとって癒やしの時間でした。ココが我が家の住人となったことで、昼間もミミとココでお留守番ができるようになりました。そして、わたしは夏の1週間の出張も安心して出かけることができました。

亡くなった母がミミとわたしのためにココをこの家に連れてきてくれたのかなと思いました。

その後、初めてひとり暮らしをした山口でもミミとココと一緒でした。

4,ミミとのわかれー食べることの意味―

ミミは身体が弱く、山口、大阪、新潟とそれぞれに主治医がいました。そんなミミとの別れは15年目でした。

食事を食べることができなくなったミミに、動物病院で点滴を続けました。ミミはトイレに行くこともできないほど体力がおちていました。そんなミミの口から乳白色の液体が出てきました。ミミの歯に歯石がついていました。その歯石が原因で抵抗力がなくなったミミの歯肉が炎症し膿がたまり、その膿が口から流れ出ていたのです。膿が溜まるまでは痛いのですが、膿が出ると内圧が弱まり激痛も治まってきます。しかし、歯肉の腫れはドンドン広がり、頬の皮膚から外に出るようになりました。猫の頬の皮膚はとても薄いため、頬に穴がどんどん大きくなりました。穴が空いたミミの頬を見ると、毎日点滴に通うことがわたしのエゴではないのか、ミミの苦しみを伸ばしているのではないかと悩みました。しかし、点滴を止める決心もつかず、妹に泣きながら相談をしました。妹からは看護師として「1週間点滴をしてダメだったら点滴を中止したら」というアドバイスがありました。

動物病院で猫用のスポーツドリンクのような飲み物をもらい、スポイドで飲ませていました。また、少しでも栄養を取ってほしいと思いミルクも飲ませていました。穴が空いた頬にはガーゼを張っているのですが、お水もミルクも頬からこぼれてきます。食事の度に傷口を洗浄し、ガーゼを交換していました。その介護の日々がミミの死を受け入れるために、わたしにとっては大切な1週間となりました。

しかし、1週間介護を続けているとスポイドで水を飲んでいたミミが、スプーンから飲むようになりました。そして、よろめきながらもお皿から自分で水やミルクを飲むことができるまでに回復してきました。最初は少ししか飲まなかったけれど徐々に量が増え、やがて自分でご飯を食べることができるまで回復しました。

歯科衛生士のわたしは、点滴だけで栄養補給をしている寝たきりの方の褥瘡が、口から食事をすることで褥瘡が治るという知識はありました。それをミミで経験することができました。ミミの頬の穴は目の下まで大きく空き、歯が見えていました。食事をするとその穴からご飯がこぼれてきます。まだ、全身麻酔をかけることができるほど体重が回復していなかったので、体重が戻ったらその穴をふさぐ手術をする予定でした。しかし、食べることで体力が回復すると、頬の穴が段々と小さくなってきました。体重がもどったころには、局所麻酔で縫い合わせるだけで大丈夫なぐらいの小さな穴になっていました。改めて口から食べることのすごさを実感しました。後で思うと写真を撮っておいたら講義で使えたのにとは思ったのですが、さすがにその時にはそんな考えは浮かびません。

その経験から1年間、ミミは元気に過ごしました。2回目のミミの死と向き合った最後の日、一晩ミミの看病をしていました。夜明け前に、ミミが下顎呼吸を始めたときには覚悟することができました。ミミとの別れは悲しかったけど、介護をしっかりとしてきた満足感がわたしにはありました。そして、グリーフケアの大切さを身もって経験しました。

大阪でミミを見送り、父とココと新潟に行くことになりました。

5.ココとの別れ

家の中でミミはいつもわたしの後ろについてきました。ココは常にミミに一緒に過ごしていました。ココは元気で隣の家の屋根に登るのが大好きでした。わたしが屋根の上のココを呼んでも降りきません。しかし、ミミが呼ぶとココはすぐに戻ってきました。わたしたちはずっと「ココ-ミミ―私」という3者関係でした。ミミが亡くなってようやくココにとっての第1番目の存在になることができました。

わたしが52歳のときに父を見送りました。その後、大分に転居しココとわたしだけの新しい生活が始まりました。ココがミミを看取った歳になったとき、いつかは別れがくるのだと思いながらも、ココとの別れを身近なことには感じていませんでした。

ココが若いときには予防接種以外、獣医さんにかかることはありませんでした。それでも高齢になったココには持病があり、定期的に薬の服用が必要になりました。そのため、出張の時にはココを動物病院に預けました。迎えに行くと帰りの車の中ではずっと文句をいうように鳴き続けていました。ある日の出張中、動物病院から電話が入りました。ココの前足の指の間がジュクジュクしているので調べたら、ガン細胞が見つかったということでした。そのときココは20歳を超えていました。人間の歳では100歳を超えています。そのため、先生と相談し手術はしないで、その時々で一番いい対処方法を考えることにしました。

指のガンは少しずつ大きくなり、やがてココの手よりも大きくなりました。ある日、家に帰るとココはわたしの布団で気持ちよく寝ていると思いました。しかし、ココが頭をのせている枕カバーに、ココの頭よりも大きな血の跡が広がっていました。ガンの指からの出血でした。それを見たときには出血多量で死ぬ可能性があることを覚悟しました。少しぐったりとしているココをすぐに動物病院へ連れていき、ガンの手の消毒の方法と包帯の仕方を教えてもらいました。その日から毎日ガーゼの交換をすることがわたしの日課となりました。

ココのガンが見つかってから10か月が過ぎようとしたとき、食事と排泄以外はずっと寝ているようになりました。緩和ケア病棟でボランティアをした経験があるわたしは、ココの主治医に痛みをとることを優先してほしいとお願いし、鎮痛剤の効果が途切れないように服用させていました。ココが安らかに旅立つことができるように願っていました。しかし、ココの辛さを取るために、わたしが最後の決断(安楽死)をしなければいけない時期がきていました。

6.ココの主治医への手紙

拝 啓 ココのためにお花をありがとうございました。また、いろいろお世話になりありがとうございました。大分に来て高齢のココを預かってくれる獣医さんがなかなか見つからず困っていたときにご快諾いただき、先生をはじめスタッフの皆さんに良くしていただいたおかげで、安心して出張に行くことができました。

ココが18歳を超えた頃から、今年はココとお別れになるかもしれないと思いながらも、「死」を意識せずに過ごしていました。でも、昨年の7月にガンだと知り、しっかりとココとの時間を大切に過ごすことが出来ました。内蔵のガンとは違い、ガンが大きくなるのが見えるということは辛かったのですが、それだからこそ事実として受け入れることが出来たのだと思います。

バスタオルに包んだココを車に乗せて帰るときはとてもつらく、交通事故をおこさないように、ほんとうにゆっくりと走っていました。後ろの車に迷惑なほど。家に帰って体をきれいに拭いてあげ、バスタオルに包んだときのココの顔が、とても気持ちよさそうに寝ているみたいで、悲しかった気持ちがすっと引いていきました。まだ暖かいココを抱きながら寝顔を見ていると、わたし自身もとても穏やかな気持ちになりました。

ゴールデンウィークの終わり頃から急に食べなくなったので、1週間ぐらいかなと覚悟を決め、可能な限り仕事も自宅で行い、最低限の外出以外ほとんどココと過ごしていました。そのときはまだ、寝顔はとても気持ちよさそうでした。朝起きたとき、仕事から帰ってきたときは、ココのお腹を見つめ動いていることにホッとしたり、「もうこれ以上頑張らなくても良いよ」という気持ちになったり。わたし自身が最終決断を下す勇気がなかったので、ココが自然に旅立つことを望んでいたのかもしれません。

ただ、10日間が過ぎたころからは辛そうで、寝てると思って側を離れたら、すぐに起き上がって呼び、抱っこをしても気持ちよさそうな寝顔にはならず。わたしが決断を下さないといけないときが来たのだと悩みながら、土日はずっとココを抱いていました。それでも月曜日には電話をかけることが出来なくて、火曜日の午前中の診療が終わる5分前にようやく電話をかけることが出来ました。久しぶりにココの気持ちよさそうな寝顔を見ることができたので、今は良かったと考えています。

先生が治療としてガーゼを交換しようとおっしゃってくださったこと、 最後の時、看護師さんも目を真っ赤にしてくださっていたことがとてもうれしかったです。本当にありがとうございました。

今は22年間、仕事から帰ると「抱っこ、抱っこ」「ご飯、ご飯」と出迎えてくれていたココがいなくなった寂しさを感じています。わたしにとって本当の意味でのひとり暮らしが始まります。

本当にいろいろありがとうございました。お忙しい日々が続くと思いますがどうぞご自愛ください。                         敬 具

 

 

 

 

・ 9.人と比べるのではなく、比べるのは過去の自分

大分でランニングサークルに参加しています。別大マラソンに参加する市民ランナーから、わたしのようなファンランまで幅広いサークルです。練習ではスピードも距離もついていくことができていません。

参加してすぐに高低差のある1.5㎞の周遊コースの練習がありました。坂道が苦手なわたしは1周で十分だと思いました。それでもなんとか9周走ることができました。他の人は10周以上走っているのに、「最初に9周走れたらすごいよ」と誉めてくださいました。大人になってから人に誉められることがなかったので、とても新鮮な気持ちでした。また、大会では必ず入賞する人も、わたしの結果を一緒に喜んでくださいます。

チームでは落ちこぼれですが、自分のペースで参加していても居心地の悪さを感じない大人のサークルです。そのチームは私の生き方の方針にも合っているからかもしれません。

「障害受容」について調べているときに出会った理論が、わたしの生き方の方針の1つになりました。

中途障害の人は、最初自分障害を認めることができなくて自分自身を過小評価する人が多くいます。医療や福祉の専門職はその人に自分の本質的な価値に気づいてもらるための支援をおこないます。コップに半分のジュースが入っているとき、ジュースがなくなった部分しか見えていない人に、残っていることに気づいてもらうための支援です。その理論の1つに、Wrightの価値転換があります。

その中でも「④比較価値から資産価値への転換」が私自身の目標です。他の人と比べるのではなく、自分の中にある価値を見つめる。そして、人と比べるのではなく、比べるのは過去の自分。昨日の私よりも少し成長していたらいいなと。もちろん、いつも過去の自分より成長しているとは限らないけど。

①価値範囲の拡大(enlarging the scope of values)

障害により喪失した価値以外の他の価値の存在を認識することであり、本質的な価値は否定されたのではなく、持ち続けていることに気がつくこと。

②身体を従属させること(subordinating physique)

身体的外観が一般的な常識の基準を下回ることで劣等感を感じるが、身体的外観より内的価値観の重要性を認識すること。

③障害の影響の抑制(containing disability effect)

身体的障害によって心理的影響が拡大するが、障害により喪失した価値は一部分であり、多くの価値が残存していることに気づく。

④比較価値から資産価値への転換(transforming comparative values into asset values)

一般的な標準と比較して自分の価値を評価する比較価値から、自分に内在する価値を見つける資産価値への転換、つまり外的価値観から内的価値観への変換である。

・ 8.諦めなければ夢は叶う ー1kmを走ることができなかった私がフルマラソンに挑戦ー

1)体育が大嫌いだった私が、フルマラソンを完走

運動神経がない私は体育の時間が大きらい。高校での3キロのマラソン大会では、最後尾を自転車でついてくる先生に「無理しなくていいよ」って言われながら走ったり歩いたりしていました。

運動が大嫌いで、20年以上も運動をしていなかった私。30歳から45歳まで1kgずつ増加…。15kg太りこのままでは生活習慣病になる可能性が大きい。そのため、続かないだろうと思いながらも、45歳の時にフィットネスクラブに通い始めました。最初に出会ったインストラクターAさんのおかげで楽しくエアロビクスを続けることができ、Aさんに背中を押されて49歳で10キロマラソン大会に初場。50歳でフルマラソンを完走することができました。

 2)続かないと思いながら運動を開始

健康のためとはいえ、フィットネスクラブは「3ヶ月続かないだろうな」と思いました。初めて参加したエアロビクスのインストラクターがAさんでした。最初のレッスンでAさんは、みんながキックで跳んだり跳ねたりしているときに、私の前に来て「跳ばなくていいです」と、踵タッチを教えてくださいました。その次に参加したときも、キックのときは前から私の方を見て踵タッチをしてくださるので、「跳ばなくていいんだ」と思いながら跳ぶのを止めました。その後も、落ちこぼれの私にいつも声をかけてくださったので楽しく続けることができました。

そして、食事内容を変えていなくても体重が1ヶ月に1㎞落ち、1年で12kg体重が減少。効果を数字で実感できるというのはモチベーションの維持に有効ですね。

3)グループレッスンの中での個別指導

私には「飛ばなくても良いですよ」おっしゃってくださったAさんは、他のお客さんには「足挙げて」と声をかけながらスタジオを回られます。私には関係ないなと思っていたら、ある日、「腕を大きく動かして」とアドバイスされました。その後、横や前に移動する動作のときに、大きく移動するようにと言われ、いつしか「足挙げて」とアドバイスをされるようになりました。それにしてもグループレッスンの中で、その人に合わせたアドバイスをするのはすごいですね。

 4)走ることを初めて

フィットネスクラブに行き始めた頃は体力がなく、45分間の初心者のエアロビクスも大変でした。ようやくハイインパクトのエアロビクスを1時間楽しめるようになった頃、自分の体力への好奇心から夜遅くにこっそりと自宅の周りを1キロ走ってみました。高校時代とは違い1キロを走っても平気だったことに驚きました。

 5)ゆっくりでいいんだ。歩いても良いんだと

インターネットで有酸素運動の心拍数に関する情報を見つけました。トレッドミルで有酸素の心拍数で走ってみたときには、こんなにゆっくりで良いんだと思いました。また、「途中で歩いてもいい」「歩いたら次はもっとゆっくりのスピードで走り始める」という情報も見つけました。それを実践するようになってからは、走ることが辛くなくなりました。そして、ゆっくりと気持ちよく走り、走ることができる距離を伸ばすことを楽しみました。ジョギングよりもウォーキングに近いスピードだけど、1年ぐらいで新潟島を1周(15キロ)するという目標を達成しました。

 6)信頼できるパーソナルトレーナーからの支え

このまま距離を伸ばしたら膝を痛めると思い、Aさんのパーソナルトレーニングを受けることにしました。Aさんは国際マラソンに参加されるような市民ランナーです。そのため、走るために必要な筋肉のトレーニングや体幹トレーニングの他に、スタジオが空いているときにはランニングのフォームも教えて頂きました。最初は自重で数回スクワットをしただけでも、筋肉痛になるような筋力しかありませんでした。

 7)小さな目標達成を一緒に喜んでくださる人の存在

完走できないかもしれないと思って参加したハーフマラソンの大会。ゴールの会場に戻って最後のグラウンド1周。「まだあんなに」と思ったとたんスピードダウン。そのとき、応援に来てくださっていたAさんが、グラウンドの内側を一緒に走って下さっていることに気がつきました。ゴールの瞬間よりもうれしくて、もう一度頑張れました。

それからも1つ1つの小さな目標の達成を、いつも一緒に喜んでくださいました。

 8)初めてのマラソン大会「諦めなければ夢は叶う」

学生時代は走ることが“苦痛”だった私がジョギングを始め、Aさんに背中を押されて10キロの大会に出場し大会の楽しさを知りました。10㎞の大会が終わってすぐにAさんからフルマラソンを勧められました。そのときは、「何を言うんだろう」と思いました。でも、Aさんのおかげで私の世界では考えもしなかったこと「フルマラソン」を目標とし、Aさんに支えられながら1年後に目標を達成することができました。

初フルは大阪の大会。完走する自信がなかったので誰にも伝えず一人で参加しました。フルを目指していることを知っているのはAさんだけでした。

フルマラソンに備えてハーフ大会の経験を積み、35㎞走をAさんと一緒にしました。そして、大会に出発前にAさんに「歩いてでもゴールを目指します。」というと、「歩いたら本当の“完走”じゃないけど良いの?」という暖かい言葉(??)。大会ではAさんと一緒に35キロを走れたことで自分を励まし、Aさんに「歩かなかった」と報告したくて、歩きたくなる自分自身と闘いながら最後まで走り通すことができました。

大会に旅立つ直前に「諦めなければ夢は叶う」という言葉に出会いました。30㎞からは何度もその言葉を自分に言い聞かせていました。歩みを止めなければ、一歩ずつゴールに近づくと…。

歩かないでゴールしたことをすぐにAさんにメールですぐに報告。一緒に喜んでくださいました。

ひとりのインストラクターとの出会いにより、自分とは別な世界と思っていたフルマラソンを完走し、毎年フルマラソンに参加しています。

信頼関係とは「無理かなと自分では感じることも、この人が言うのだからできるかもしれない」と思えることだと思います。そして、いつも寄り添ってくださるという安心感。わたしも教員として、ソーシャルワーカーとしてそのような関係を結べるように目指したいと思います。

・ 7.諦めなければ夢は叶う ―大学の社会人入試に挑戦・5年目(36歳)でようやく入学ー

36歳で大学に入学しました。名前も覚えていないある女性との出会いが私の気持ちに大きな変化をもたらし、5年の歳月をかけてようやく夢が実現しました。そして、大学院に行くことを決めたのは、大きな誤算と恩師のアドバイス、そして新潟大学への就職できたのは一度だけの「ご縁」を大切にしてきたことでした。

国立大学に不合格だった私が、いろいろなご縁をいただいて今は大学の教員をしています。

 1)大学への思い 

小学校の先生を目指してある国立大学を受験しました。しかし、高校の3年生の9月まで部活動に専念して合格できるほど甘くはありません。また、オイルショックのために父親の町工場に仕事がなく私立大学にいく経済的余裕もありませんでした。それでも母親からの「女性も手に職をつけることが大切だ」というアドバイスで、歯科衛生士の専門学校に入学しました。母方の高齢の祖父が一生懸命働き、学費を援助してくれました。歯科衛生士という仕事の楽しさを知ったのは入学後、仕事の奥深さを知ったのは30歳を過ぎてからです。

母校の恩師からの紹介で27歳で大阪産業大学附属歯科衛生士専門学校の教員になり、形は違っても「先生になりたい」という夢が叶いました。しかし、「大学に行けなかった」ということが、心の奥底に潜んでいることに気づきました。通信教育で短大を卒業してみたのですが、“心の奥のわだかまり” は払拭できませんでした。

人生80年。残り50年間、心の底にある思いを持ち続けるよりも、一度立ち止まっても良いかなと考えるようになりました。

2)「縁」 1度だけの出会いが人生を変える大きな出会いに

社会人入学で大学に通っている女性に出会いました。名前も覚えていない女性とのたった1回の出会いが、私の人生を大きく変えました。まだインターネットが普及していない時代、社会人入試の本も大きな書店にしかありませんでした。それでも何冊か購入し情報収集しました。

ほとんどの大学の入試科目に英語がありました。高校卒業後、10年以上英語と無縁だったので、中学生の英文法の参考書を購入して勉強を始めました。両親にも内緒で大阪のある大学を受験したとき、「若干名」という募集に30名以上の受験生。私の実力で30名近くの人を押しのけて入学できるはずがありません。

3)「運」 私だけの授業

母親を看取り私生活が大きく変わり、「大学受験」という気持ちが遠のきました。再チャレンジの気持ちが芽生えてきた頃は、父親とふたり暮らしでした。そのため、自宅から通える大学を目指していました。

当時、社会人入試を行っている大学は限られていました。募集人員が10名の神戸にある大学では、大講義室いっぱいの受験生がいました。もちろん、100人以上の人に勝つ英語力はありません。数年間の自己学習をしていたのですが独学では難しいと思いました。そこで、英会話スクールの準2級の英検コースへ通い始めました。最大3名というセミプライベートコース。運良くその時間の受講生は私だけでした。そのため、受験内容に合わせた授業の進め方をしてくださいました。

4)「動」 背中を押されて一歩前に

ある日、職場の寮に住んでいる妹が、「実家で父親と一緒に住んでも良い」といってくれました。その言葉をきっかけに、関西に限定せず全国の社会人入試を行っている大学をいくつも受験することにしました。翌年も神戸の大学を再チャレンジしたのですが不合格でした。しかし、地方の大学2つに合格しました。その1つが山口県立大学社会福祉学部でした。

社会人入試への挑戦を始めてから、5年の歳月が流れていました。「社会福祉士」が何をするのかあまり把握しないまま、国家資格が取得できるということで山口県立大学を選択しました。歯科衛生士と社会福祉士の2つの資格。当時は「どうしてその2つの資格?」とよく聞かれました。私自身もその2つの資格が人生を大きく変えることになると、そのときは考えていませんでした。

5)「迷」 誤算のまま流されて進むことに

大学附属の専門学校に勤めていたので、安定した収入がありました。30歳を過ぎても独身だった私は将来マンションを購入しようと思い、少しずつ貯金をしていました。その貯金と退職金、奨学金で入学金や授業料はなんとかなりそうでした。地方の大学へ入学すると生活費以外に家賃が必要です。父は無職で国民年金。父からの援助も受けられません。大阪では夜9時頃まで歯科衛生士としてアルバイトが可能です。しかし、山口市の歯科診療所は6時頃には終わるため、放課後に歯科衛生士としてのアルバイトができませんでした。経済的には大きな誤算でした。

また、卒業するときには40歳を超えています。40歳の女性にとって常勤の再雇用が難しいことはわかっていました。しかし、実家に住んでいたため、歯科衛生士の資格があるので食べるぐらいはなんとかなるだろうと考えました。今から考えると、女性だったから安定した常勤の仕事を退職する決心ができたのだと思います。男性で「将来家族を養う可能性もある」と考えると、退職して大学に入学することは考えなかったと思います。

6)「止」 根無し草

大学入学を決めたとき、実家の大家さんが亡くなったために、実家を明け渡さなければならなくなりました。明け渡すことになったのは、退職願の提出後でした。たぶん、提出前でしたら入学を取りやめていたかもしれません。

父親は妹が購入したマンションに住むことになりました。引っ越しのとき、父親は入院していました。生まれて初めての引っ越しをひとりで行うことになりました。自分で決めたことなのですが、「決ったことに流されている」という感覚と「これでよかったのか」という思いでいっぱいでした。なによりも、実家がなくなってからの山口への旅立ちは、「根無し草になった」という気持ちでした。

7)「運」大きな誤算から次のステップへ

大学に入学した後に、母校の専門学校が2000年に短大になると当時の校長先生から聞きました。ちょうど大学卒業予定の年度だったので、「仕事がある」とホッとしました。大学の1年生で基礎ゼミをご担当いただいた山田富秋先生にその話をお伝えすると、短大の教員を目指すのだったら大学院に行く方がいいとアドバイスをいただきました。

しかし、母校の短期大学になるという話が中止になりました。それでも関西の大学院をいくつか受験しました。そのときは大学院で学びたいというよりも、「無所属」になると就職がさらに難しくなると思ったからです。関西の大学院を目指したのは、父親が高齢なので近くにいる方が良いと考えたからです。しかし、英語力がないために、不合格が続きました。最後に受験した大阪府立大学大学院は、学外者の入学率が低かったため、受験前から諦めていました。合格できたのは「運」です。英語はもちろん惨憺たる結果だったと思います。しかし、日本語で論述する内容は、卒業論文のテーマと重なっていたたため、ある程度は記述できました。また、入学後に「運が良かった」と感じたのは、4名の入学者のうち、3名が大阪府立大学以外の出身者でした。学内からの受験者が少なかったということが私に幸運をもたらしてくれました。

博士後期課程に進学したのも、就職が決まらないためでした。このときも幸運でした。前年度では学内の修士博士前期課程からの進学希望者が多く、学内からの希望者でさえ不合格者があったということでした。私が受験した年には、学内からの希望者は2名だけでした。1年前だったら博士前期課程にも博士後期課程にも合格していなかったかもしれません。

8)「縁」が「運」を -第2志望の人生から新しい人生へ-

大学院に入学したときは40歳を過ぎていました。助教で採用される年齢を超えています。しかし、講師として採用されるためには研究業績が必要です。そのため、いくつかの大学に応募しても面接にさえ呼ばれることはありませんでした。4年間の大学生活で貯金を使い果たしていたため、働きながらゆっくりと論文を仕上げたいと思っていたので、少し焦り始めていました。

新潟大学が歯科衛生士教育の経験がある歯科衛生士を探しているという話をいただいたのは、博士後期課程の2年生のときでした。就職について大きな転機をもたらせてくださったのは、1度だけお会いしたひとりの歯科医師でした。その先生とはお会いした後に仕事のことでメールで情報交換をしたこともあったのですが、ほとんど年賀状でご挨拶をするだけの関係でした。また、直接電話をくださったのは、勤めていた専門学校の教務主任です。その先生とも年賀状でのご挨拶を続けていました。

「ご縁」を大切にしてきたことが、私の人生にとって、大きな「運」を運んでくれました。

東京医科歯科大学や広島大学が歯科衛生士の4年生大学設立を目指しているという話を聞いていたのですが、新潟大学と聞いて最初は驚きました。また、歯科衛生士と社会福祉士のダブルライセンスを取得を目指した教育をすると説明をうけ、2つの資格を生かすことができる仕事に出会えたと思いました。

今までの第2志望の選択と、そのとき、そのときにやりたいことをしていただけの人生が1つになった瞬間でした。

 

・ 6.第二志望の人生 ー大学受験の失敗(教育学部不合格)から違う形での夢の実現ー

自分の歩みを振り返ってみると「第二志望の人生」でした。でも、第二志望で選択した道が今の人生にとても大きな実りをもたらせています。

1)大学受験の失敗

高校時代に入っていた混合合唱のクラブ (Senyo Mixed Chorus Club SMCC)は、スポーツクラブ並みに真剣に練習をするクラブでした。NHKのコンクールの最優秀賞受賞を目指し、3年生の夏休みも毎日練習していました。引退したのは9月。自分でも合格するはずはないと思いながらも、小学校の先生を希望していたため、ある国立大学の教育学部を受験したのですが不合格でした

女性が浪人することが少ない時代でした。そのため、大阪歯科大学歯科衛生士専門学校に入学しました。専門学校の担任の娘さんはわたしと同じ年でした。そして、わたしが不合格となった大学に進学されていました。たぶん、「その大学に不合格だった」と明るく伝えたような気がします。今から考えるとすごい「縁」ですね。

2)違う形での夢の実現

その担任の先生との出会いにより、自分の夢が違う形で叶えることができました。卒業して6年後に大阪産業大学附属歯科衛生士専門学校で産休の代替教員を探しているという連絡をくださったのは、当時の担任の先生でした。また、翌年の4月からは常勤の専任教員を雇用する予定だということでした。27歳で専門学校の教員になり、「先生になる」という夢が叶いました。

そして、9年間の専門教員として歯科衛生士養成に携わっていたという経験が、後に新潟大学校口腔生命福祉学科の教員の道につながることになりました。国立大学に不合格だったわたしが、国立大学で教えることになるなんて夢にも考えていませんでした。

・ 5.第二志望の人生 ―第二志望の高校で大切な友人との出会いー

自分の歩みを振り返ってみると「第二志望の人生」でした。でも、第二志望で選択した道が今の人生にとても大きな実りをもたらせています。

1)第二志望の高校で大切な友人との出会い

大阪の第8学区の三国丘高校は、現役での東大入学が何人もいる高校です。母親は小学校の担任から三国ヶ丘高校に行くことができるといわれたと教えてくれました。自分のなかでもその頃から三国ヶ丘高校に行くと思っていました。しかし、入学したのは第二志望の泉陽高校でした。第二志望だったからこそ高校生活を満喫し、一生つきあうことができる友人達と出会いました。

①高校の選択と高校生活

中学校3年生の時の三者面談で、担任から三国丘高校はもう少し頑張らないと難しいといわれました。そのときはあまり悩むことなく、泉陽高校受験を選択しました。

私が学生だった頃は、「泉陽温泉」といわれるのどかな校風で、一生懸命クラブ活動をしている人が多い学校でした。中学校ではクラブ活動をしていなかった私も、クラブに入ることにしました。運動が苦手な私は混合合唱のクラブ (Senyo Mixed Chorus Club SMCC)に入部しました。運営も指揮者も全て学生が行うクラブでした。入部後は6月のリサイタルに向けて、放課後の練習に加え、朝練、昼練していました。また、9月のNHKコンクールの最優秀賞受賞を目指した、夏休みも毎日練習がありました。

私の学年は1年生と3年生で最優秀章でした。しかし、1年生のとき私は舞台には立っていません。NHKコンクールは出場できる人数の上限が決まっています。そのため、大会の前に各パートから1名ずつ出てみんなの前で歌い、3年生によって出場者の選抜されました。1年生の時は3名が出場できませんでした。そのひとりが私です。その3人のうち3年生の終了時までクラブを続けていたのは私だけでした。

私は常に「自信のなさ」を感じていました。SMCCの後輩には中学時代から真剣にコーラスをしていた人や、後に音大に進学するような人がたくさんいました。3年生になり指導する立場になっても、ずっと自信をもつことができないままクラブを続けていました。

②第二志望の人生だったからこそ得ることができたこと

入学直後に行われた全学年共通テストでは450人中約50番でした。それもクラブ活動が満喫できた要因の1つだったのかもしれません。しかし、すぐにそれは「甘い考えだ」と知る出来事がありました。1年生の夏休みは毎日クラブ活動に明け暮れていたため、夏休み終了後の全学年共通テストでは450人中400番でした。最初は前に50人。2回目は後ろに50人。ポジティブに考えれば、ここまで落ちたらこれ以上落ちない。

3年間打ち込むことができるものがあったということは、とても良い思い出です。また、中学時代に「親友」と呼べる友人がいなかった私にとって、SMCCで一生つきえる友人達に出会いました。また、先輩達にも恵まれ、今でも定期的に数学年を対象としたSMCCの同窓会を開催してくださいます。高校の同窓会館に集まり懐かしい歌を懐かしい人たちと一緒に歌うとき、高校時代の私にもどることができます。

・ 4.自分を変える -内気な私が人と話をする仕事に-

1)人前で話せなかった小学校時代

引っ越しのときに小学校の通知簿が出てきました。ずっと「みんなの前で自分の意見がいえるようになればいいね」と書かれていました。電話も母親がいなときに渋々でるという状態でした。でも、今は「黙っていろ」といわれても黙っていない性格。職場の人に通知簿の話をしても信じてくれません。

2)人前で話すことができるようになったきっかけ

そんな私が歯科衛生士として初対面の方ともお話をする仕事につき、今は多くの人の前で話す仕事をしています。

変わったきっかけはやはり歯科衛生士という職業を選択したことだと思います。専門学校時代には小学校4年生を対象に40分間の集団歯科保健指導を行ったり、保健所の3歳児検診などでお母さんを対象に個別指導を行う実習がありました。集団指導は原稿を作ることから初め、同級生と2名で40分間話し続けます。また、保護者への歯科保健指導もチャートを作り、どのようなときにどのようなことを話さないといけないのか、あらかじめ予習します。それでもドキドキしながらも歯科保健指導を行っていました。

臨床実習では歯科医師の補助につきます。セメントが固まる間とか、歯を抜いた後の止血をしている間には、先生がその場所からいなくなってしまいます。患者さんとふたりっきりになり、何も話しかけられず「どうしよう」と心の中で焦っていました。

歯科衛生士は患者さんの緊張をほぐすことも大切な役割の1つ。就職した頃は「話さないといけない」という気持ちが強かったのですが、患者さんと何気ない会話ができるようにまりました。そして、仕事以外でも初対面の人と和やかにお話をしながら過ごすことができるようになったと思います。

「人前で話すことが苦手」という学生にはいつも、「人は変わることができる」と伝えています。

 

・ 3.自分を変える -笑顔が素敵な女の子にあこがれて-

中学生時代は週刊誌「マーガレット」や月刊誌「リボン」を欠かさず読んでいました。中学生の頃は「ベルサイユのバラ」や「エースをねらえ」が連載しているころで、次の号が出版されるのを楽しみにしていました。

友達から借りた漫画を待ちきれずに授業中に読んでいて、先生に取り上げられた経験も。取り上げられたのは優しい先生だったので、「職員室に戻られるまでに返してもらわないと、職員室には怖い先生もたくさん…。」と、授業終了後、急いでその先生を追いかけました。

中学生時代に私がとても好きだった作家は太刀掛秀子さん。いつも笑顔も性格もかわいい女の子が主人公でした。わたしにはないものをもつ主人公にあこがれていたのかもしれません。「笑顔が素敵な女の子っていいな」って。

高校時代も決まった友人と話すだけでした。高校3年生のろき「A君が、隅田さんっていつもニコニコしているねって言ってたよ」とクラスメイトから聞きました。そのときは「いつも笑っていたら馬鹿みたい」と茶化したのですが、とても不思議な気持ちでした。

中学生時代にあこがれていた「笑顔が素敵な女の子」になれたのかなって。

・ 2.生き方の道しるべとなった言葉達

「私の杯は大きくありません。それでも私は私の杯で頂きます。」(森鴎外 「杯」)
青春時代に出会った言葉

「若い時は、外見ではなく自分の中身にお金をかけなさい」(大阪歯科大学歯科衛生士専門学校学 生時代の校長 宮脇美智子先生)
歯科衛生士の学生時代に心に残った言葉
最初はお茶お花、洋裁などのいわゆる教室に通い、それが飽き足らなくなった頃には短大の通信教育を受けたりしていました。
そして、とうとう36歳で大学に入学しました。

「僕達は手の届く範囲しかできないけど、出来ることは、手の届く範囲ほどもある」(さだまさし 「二小節の歌」)
22歳でこの言葉に出会ってから、ずっと頭の片隅にあります。

「走り疲れたらお歩き 歩き疲れたらお休み やがて休み疲れたなら どうせまた走りたくなるさ」さだまし 立ち止まった素描画)
20歳代と30歳代に大きく立ち止まっていた時期がありました。
当時は耳が隠れるほどの大きなヘッドホンをして、大きなボリュームでこの歌を聴いていました。
「今は一休みしているだけ」と、自分に言い訳をしながら。

「笑顔は自分でつくるもの」一燈園 石川洋)
歯科衛生士の専門学校に勤めている頃に出会った言葉
石川先生のお母さんは、苦境の時にも子どもの前では笑顔でいらっしゃったそうです。
もう1つ「笑顔になるために自分で努力する」という意味にも読むことができます。
私は後者の意味が好きです。

袖擦れ合うも他生の縁。「掴んだ縁は離さない」(後半は隅田好美)
初めて大阪を離れ山口に行ってからの方針
年賀状でのご挨拶だけの人もいますが、そんなご縁を大切にしています。
母親が亡くなった後には、何かをしたいと思ったときには、それを実現するための「ご縁」をいただくことができています。
母親に見守られているのかなと感謝しています。

「自分の器を大きくする年です」(2006年の風水から)
新潟で出会った言葉
森鴎外の好きだった言葉の「私の杯」を、自分で大きくしないといけないと気がつきました。

「求めない すると 心が静かになる」(加島祥造 「求めない」)
老子のタオ(道)の思想
今も心が疲れたとき、この本を読み返しています。

「比較価値から資産価値への転換 (transforming comparative cvalues into asset values)」(Wright)
Wrightが提唱する障害受容のための価値転換の1つ。
一般的基準と比較する「比較価値」から、自分自身の固有の質で評価する「資産価値」への転換
他の人と比べるのではなく、自分の中にある価値を見つめたいと思います。
そして、人と比べるのではなく、比べるのは過去の自分。
昨日の私よりも少し成長していたらいいなと。

人生の三感王と経営の三感王(元ユニー社長 西川俊夫)
人生の三感:関(感)心、感動、感謝
経営の三感:危機感、存在感、使命感

 

・ 1.年賀状に書いた今年の目標(御木幽石)

2018年 しあわせは あなたのこころが 決めるもの

2017年 のんびり のんびり ゆっくり ゆっくり
(「忙しさを自分で作る性格」 この言葉にあこがれて)

2016年 大丈夫 あわてない あせらない 落ち着いて 肩のちからぬいて ゆっくり深呼吸 大丈夫

2015年 ちいさな ちいさな しあわせめざして 一歩一歩頑張る頑張る。
あしたもいい日でありますように

2014年 顔はこころのかたちです まあるく まあるく えがお えがお
(この年は運動不足で身体が「まあるく」なりました。)

2010年 明日のための今日 未来のための今 今が大事!