10.2匹の猫(ミミとココ) ―グリーフケアの大切さ―
わたしの分岐点にはいつもミミとココがいました。母と父を看取った日、山口で初めての一人暮らしを始めたとき、大阪で大学院に入学したとき、そして、仕事のために新潟や大分での生活が始めたとき。
わたしを心から必要としてくれるミミとココの存在に癒されていました。そして、グリーフケアの知識はあったけど、ミミとココの看取りを経験したことでグリーフケアの大切さについて知ることができました。ミミとココを介護した日々があったから、その死を穏やかに受け入れることができたのだと思います。
1.ミミとの出会い ーミミのトラウマー
ある夜、母が近所の線路に子猫がいるので拾いに行こうと言いだしました。そこには数匹の子猫がいました。わたしが線路に入るとほとんどの子猫は逃げ、1匹だけ抱き上げることができました。その子猫とわたしたちは一緒に帰ってきました。帰ったときにわかったのですが、その子猫の頭に大きなコブがあり、ミルクも水も自分で飲もうとしないぐらい弱っていました。母はスポイドでミルクを飲ませ、タオルに包んでその猫を寝かせました。ぐったりとした子猫を見て、母は一晩の命だと思ったみたいです。次の朝、すぐに動物病院に連れて行きました。少しずつ回復し自分でミルクを飲むことができるようになりました。母は「ミミ」と名付けました。実は雄だったのですが…。
ミミが歩くことができるまで回復したとき、円を描くように同じ場所をクルクルと歩きました。頭に傷を負っていたので、いろいろな後遺症が残り介護が必要になるのだろうと思い、最初は少し厄介な子猫を拾ってきたと思いました。それでもミミの快復力はすごく、ご飯を自分で食べるようになり、排泄も失敗することなく、走って遊ぶことができるようになりました。
ミミは母親のベッドで一緒にお昼寝をするのが大好きでした。夜は眠たくなれば「一緒に寝よう」とわたしを誘いにきました。昼間、ミミは母親とずっと一緒だったので、お留守番が大嫌いでした。母が長い時間家を空けた日の夜は、ミミの機嫌が悪く「一人にした、一人にした」と怒っているような鳴き方をしていました。
甘えん坊のミミは、いつもわたしたち家族の側にいました。しかし、父親以外の男性をとても怖がりました。男性の声が聞こえると隠れて出てきませんでした。きっと、男性にいじめられたことが我が家に来たときの「頭のコブ」の原因だったのではないでしょうか。どれほど怖い経験をしたのか、それがトラウマとなっているのだと思いました。
2.リュウマチだった母親の障害感
わたしが小学校3年生頃に母親はリュウマチを発症しました。その当時は今のように治療も発達していませんでした。母はリュウマチのために、手足が変形し長い距離を歩くことも階段を上ることも大変でした。スーパーに行っても重いものを持つことができません。雨の日などは痛みが強く、昼間もベッドで横になっていることがありました。
母親は昭和4年生まれです。そのため、昔の障害感を持っていました。母は若いわたしたちが障害をもった母親と歩くことが、恥ずかしいだろうと思っていたみたいです。そして、自分に障害があるので、娘達の縁談に悪い影響があるのではないかと真剣に考えていたみたいです。母がそんなことを考えていたのだと聞いたときには驚きました。
ミミは怪我の後遺症で腰が悪く、椅子に座っているわたしの膝に飛び乗ることはできませんでした。誰かの膝に乗りたいときには、その人の足下で上を見上げて鳴くと「抱っこか?」といって抱き上げてもらえます。それでミミは満足を得ることができました。まだ、社会福祉のことを学ぶ前でしたが、母親の障害があることへの悩みを知り、他の猫と比べて悩むことはなく楽しく暮らしているミミがうらやましくなりました。
3.ココとの出会い ― ミミの決断 ―
ミミはいつもわたしか母と一緒に寝ていました。わたしの寝るのが遅いときも、わたしが寝るのをずっと待っていました。父は慢性気管支炎のため、ミミが父の部屋に入ることは禁止していました。わたしが33歳の1月に母は亡くなりました。その当時、わたしは歯科衛生士の専門学校に勤めていました。その学校では夏に1週間の海外研修があり、母が亡くなった年の引率が決まっていました。私が出張している間、ミミは一人で寝ることになります。1週間もひとりで寝るのはストレスだろうなと心配でした。
母が亡くなった年の春、我が家に子猫がやってきました。庭で子猫の鳴き声がするので出てみると、ミミがその子猫の首元を甘噛みしていました。しばらくして、ミミはその子猫を自分の食事の場所に連れて行き、その子猫がご飯を食べている間自分はご飯を食べないで横で待っていました。ミミはその子猫と一緒に暮らすことを決めたみたいでした。わたしは「ミミの子分」という意味で「ココ」と名付けました。
我が家にきてすぐのココは、わたしが近づいたときには逃げることもありました。しかし、ミミのことをお母さんだと思ったのか、ミミのお乳を吸いながら寝ていました。ミミは雄なのですがココにお乳を吸わせていました。ミミは夜に寝るときには、わたしの布団に入ってきます。するとミミと一緒に寝たいココも入ってきます。わたしにとって癒やしの時間でした。ココが我が家の住人となったことで、昼間もミミとココでお留守番ができるようになりました。そして、わたしは夏の1週間の出張も安心して出かけることができました。
亡くなった母がミミとわたしのためにココをこの家に連れてきてくれたのかなと思いました。
その後、初めてひとり暮らしをした山口でもミミとココと一緒でした。
4,ミミとのわかれー食べることの意味―
ミミは身体が弱く、山口、大阪、新潟とそれぞれに主治医がいました。そんなミミとの別れは15年目でした。
食事を食べることができなくなったミミに、動物病院で点滴を続けました。ミミはトイレに行くこともできないほど体力がおちていました。そんなミミの口から乳白色の液体が出てきました。ミミの歯に歯石がついていました。その歯石が原因で抵抗力がなくなったミミの歯肉が炎症し膿がたまり、その膿が口から流れ出ていたのです。膿が溜まるまでは痛いのですが、膿が出ると内圧が弱まり激痛も治まってきます。しかし、歯肉の腫れはドンドン広がり、頬の皮膚から外に出るようになりました。猫の頬の皮膚はとても薄いため、頬に穴がどんどん大きくなりました。穴が空いたミミの頬を見ると、毎日点滴に通うことがわたしのエゴではないのか、ミミの苦しみを伸ばしているのではないかと悩みました。しかし、点滴を止める決心もつかず、妹に泣きながら相談をしました。妹からは看護師として「1週間点滴をしてダメだったら点滴を中止したら」というアドバイスがありました。
動物病院で猫用のスポーツドリンクのような飲み物をもらい、スポイドで飲ませていました。また、少しでも栄養を取ってほしいと思いミルクも飲ませていました。穴が空いた頬にはガーゼを張っているのですが、お水もミルクも頬からこぼれてきます。食事の度に傷口を洗浄し、ガーゼを交換していました。その介護の日々がミミの死を受け入れるために、わたしにとっては大切な1週間となりました。
しかし、1週間介護を続けているとスポイドで水を飲んでいたミミが、スプーンから飲むようになりました。そして、よろめきながらもお皿から自分で水やミルクを飲むことができるまでに回復してきました。最初は少ししか飲まなかったけれど徐々に量が増え、やがて自分でご飯を食べることができるまで回復しました。
歯科衛生士のわたしは、点滴だけで栄養補給をしている寝たきりの方の褥瘡が、口から食事をすることで褥瘡が治るという知識はありました。それをミミで経験することができました。ミミの頬の穴は目の下まで大きく空き、歯が見えていました。食事をするとその穴からご飯がこぼれてきます。まだ、全身麻酔をかけることができるほど体重が回復していなかったので、体重が戻ったらその穴をふさぐ手術をする予定でした。しかし、食べることで体力が回復すると、頬の穴が段々と小さくなってきました。体重がもどったころには、局所麻酔で縫い合わせるだけで大丈夫なぐらいの小さな穴になっていました。改めて口から食べることのすごさを実感しました。後で思うと写真を撮っておいたら講義で使えたのにとは思ったのですが、さすがにその時にはそんな考えは浮かびません。
その経験から1年間、ミミは元気に過ごしました。2回目のミミの死と向き合った最後の日、一晩ミミの看病をしていました。夜明け前に、ミミが下顎呼吸を始めたときには覚悟することができました。ミミとの別れは悲しかったけど、介護をしっかりとしてきた満足感がわたしにはありました。そして、グリーフケアの大切さを身もって経験しました。
大阪でミミを見送り、父とココと新潟に行くことになりました。
5.ココとの別れ
家の中でミミはいつもわたしの後ろについてきました。ココは常にミミに一緒に過ごしていました。ココは元気で隣の家の屋根に登るのが大好きでした。わたしが屋根の上のココを呼んでも降りきません。しかし、ミミが呼ぶとココはすぐに戻ってきました。わたしたちはずっと「ココ-ミミ―私」という3者関係でした。ミミが亡くなってようやくココにとっての第1番目の存在になることができました。
わたしが52歳のときに父を見送りました。その後、大分に転居しココとわたしだけの新しい生活が始まりました。ココがミミを看取った歳になったとき、いつかは別れがくるのだと思いながらも、ココとの別れを身近なことには感じていませんでした。
ココが若いときには予防接種以外、獣医さんにかかることはありませんでした。それでも高齢になったココには持病があり、定期的に薬の服用が必要になりました。そのため、出張の時にはココを動物病院に預けました。迎えに行くと帰りの車の中ではずっと文句をいうように鳴き続けていました。ある日の出張中、動物病院から電話が入りました。ココの前足の指の間がジュクジュクしているので調べたら、ガン細胞が見つかったということでした。そのときココは20歳を超えていました。人間の歳では100歳を超えています。そのため、先生と相談し手術はしないで、その時々で一番いい対処方法を考えることにしました。
指のガンは少しずつ大きくなり、やがてココの手よりも大きくなりました。ある日、家に帰るとココはわたしの布団で気持ちよく寝ていると思いました。しかし、ココが頭をのせている枕カバーに、ココの頭よりも大きな血の跡が広がっていました。ガンの指からの出血でした。それを見たときには出血多量で死ぬ可能性があることを覚悟しました。少しぐったりとしているココをすぐに動物病院へ連れていき、ガンの手の消毒の方法と包帯の仕方を教えてもらいました。その日から毎日ガーゼの交換をすることがわたしの日課となりました。
ココのガンが見つかってから10か月が過ぎようとしたとき、食事と排泄以外はずっと寝ているようになりました。緩和ケア病棟でボランティアをした経験があるわたしは、ココの主治医に痛みをとることを優先してほしいとお願いし、鎮痛剤の効果が途切れないように服用させていました。ココが安らかに旅立つことができるように願っていました。しかし、ココの辛さを取るために、わたしが最後の決断(安楽死)をしなければいけない時期がきていました。
6.ココの主治医への手紙
拝 啓 ココのためにお花をありがとうございました。また、いろいろお世話になりありがとうございました。大分に来て高齢のココを預かってくれる獣医さんがなかなか見つからず困っていたときにご快諾いただき、先生をはじめスタッフの皆さんに良くしていただいたおかげで、安心して出張に行くことができました。
ココが18歳を超えた頃から、今年はココとお別れになるかもしれないと思いながらも、「死」を意識せずに過ごしていました。でも、昨年の7月にガンだと知り、しっかりとココとの時間を大切に過ごすことが出来ました。内蔵のガンとは違い、ガンが大きくなるのが見えるということは辛かったのですが、それだからこそ事実として受け入れることが出来たのだと思います。
バスタオルに包んだココを車に乗せて帰るときはとてもつらく、交通事故をおこさないように、ほんとうにゆっくりと走っていました。後ろの車に迷惑なほど。家に帰って体をきれいに拭いてあげ、バスタオルに包んだときのココの顔が、とても気持ちよさそうに寝ているみたいで、悲しかった気持ちがすっと引いていきました。まだ暖かいココを抱きながら寝顔を見ていると、わたし自身もとても穏やかな気持ちになりました。
ゴールデンウィークの終わり頃から急に食べなくなったので、1週間ぐらいかなと覚悟を決め、可能な限り仕事も自宅で行い、最低限の外出以外ほとんどココと過ごしていました。そのときはまだ、寝顔はとても気持ちよさそうでした。朝起きたとき、仕事から帰ってきたときは、ココのお腹を見つめ動いていることにホッとしたり、「もうこれ以上頑張らなくても良いよ」という気持ちになったり。わたし自身が最終決断を下す勇気がなかったので、ココが自然に旅立つことを望んでいたのかもしれません。
ただ、10日間が過ぎたころからは辛そうで、寝てると思って側を離れたら、すぐに起き上がって呼び、抱っこをしても気持ちよさそうな寝顔にはならず。わたしが決断を下さないといけないときが来たのだと悩みながら、土日はずっとココを抱いていました。それでも月曜日には電話をかけることが出来なくて、火曜日の午前中の診療が終わる5分前にようやく電話をかけることが出来ました。久しぶりにココの気持ちよさそうな寝顔を見ることができたので、今は良かったと考えています。
先生が治療としてガーゼを交換しようとおっしゃってくださったこと、 最後の時、看護師さんも目を真っ赤にしてくださっていたことがとてもうれしかったです。本当にありがとうございました。
今は22年間、仕事から帰ると「抱っこ、抱っこ」「ご飯、ご飯」と出迎えてくれていたココがいなくなった寂しさを感じています。わたしにとって本当の意味でのひとり暮らしが始まります。
本当にいろいろありがとうございました。お忙しい日々が続くと思いますがどうぞご自愛ください。 敬 具