7.諦めなければ夢は叶う ―大学の社会人入試に挑戦・5年目(36歳)でようやく入学ー

2018/01/13

7.諦めなければ夢は叶う ―大学の社会人入試に挑戦・5年目(36歳)でようやく入学ー

36歳で大学に入学しました。名前も覚えていないある女性との出会いが私の気持ちに大きな変化をもたらし、5年の歳月をかけてようやく夢が実現しました。そして、大学院に行くことを決めたのは、大きな誤算と恩師のアドバイス、そして新潟大学への就職できたのは一度だけの「ご縁」を大切にしてきたことでした。

国立大学に不合格だった私が、いろいろなご縁をいただいて今は大学の教員をしています。

 1)大学への思い 

小学校の先生を目指してある国立大学を受験しました。しかし、高校の3年生の9月まで部活動に専念して合格できるほど甘くはありません。また、オイルショックのために父親の町工場に仕事がなく私立大学にいく経済的余裕もありませんでした。それでも母親からの「女性も手に職をつけることが大切だ」というアドバイスで、歯科衛生士の専門学校に入学しました。母方の高齢の祖父が一生懸命働き、学費を援助してくれました。歯科衛生士という仕事の楽しさを知ったのは入学後、仕事の奥深さを知ったのは30歳を過ぎてからです。

母校の恩師からの紹介で27歳で大阪産業大学附属歯科衛生士専門学校の教員になり、形は違っても「先生になりたい」という夢が叶いました。しかし、「大学に行けなかった」ということが、心の奥底に潜んでいることに気づきました。通信教育で短大を卒業してみたのですが、“心の奥のわだかまり” は払拭できませんでした。

人生80年。残り50年間、心の底にある思いを持ち続けるよりも、一度立ち止まっても良いかなと考えるようになりました。

2)「縁」 1度だけの出会いが人生を変える大きな出会いに

社会人入学で大学に通っている女性に出会いました。名前も覚えていない女性とのたった1回の出会いが、私の人生を大きく変えました。まだインターネットが普及していない時代、社会人入試の本も大きな書店にしかありませんでした。それでも何冊か購入し情報収集しました。

ほとんどの大学の入試科目に英語がありました。高校卒業後、10年以上英語と無縁だったので、中学生の英文法の参考書を購入して勉強を始めました。両親にも内緒で大阪のある大学を受験したとき、「若干名」という募集に30名以上の受験生。私の実力で30名近くの人を押しのけて入学できるはずがありません。

3)「運」 私だけの授業

母親を看取り私生活が大きく変わり、「大学受験」という気持ちが遠のきました。再チャレンジの気持ちが芽生えてきた頃は、父親とふたり暮らしでした。そのため、自宅から通える大学を目指していました。

当時、社会人入試を行っている大学は限られていました。募集人員が10名の神戸にある大学では、大講義室いっぱいの受験生がいました。もちろん、100人以上の人に勝つ英語力はありません。数年間の自己学習をしていたのですが独学では難しいと思いました。そこで、英会話スクールの準2級の英検コースへ通い始めました。最大3名というセミプライベートコース。運良くその時間の受講生は私だけでした。そのため、受験内容に合わせた授業の進め方をしてくださいました。

4)「動」 背中を押されて一歩前に

ある日、職場の寮に住んでいる妹が、「実家で父親と一緒に住んでも良い」といってくれました。その言葉をきっかけに、関西に限定せず全国の社会人入試を行っている大学をいくつも受験することにしました。翌年も神戸の大学を再チャレンジしたのですが不合格でした。しかし、地方の大学2つに合格しました。その1つが山口県立大学社会福祉学部でした。

社会人入試への挑戦を始めてから、5年の歳月が流れていました。「社会福祉士」が何をするのかあまり把握しないまま、国家資格が取得できるということで山口県立大学を選択しました。歯科衛生士と社会福祉士の2つの資格。当時は「どうしてその2つの資格?」とよく聞かれました。私自身もその2つの資格が人生を大きく変えることになると、そのときは考えていませんでした。

5)「迷」 誤算のまま流されて進むことに

大学附属の専門学校に勤めていたので、安定した収入がありました。30歳を過ぎても独身だった私は将来マンションを購入しようと思い、少しずつ貯金をしていました。その貯金と退職金、奨学金で入学金や授業料はなんとかなりそうでした。地方の大学へ入学すると生活費以外に家賃が必要です。父は無職で国民年金。父からの援助も受けられません。大阪では夜9時頃まで歯科衛生士としてアルバイトが可能です。しかし、山口市の歯科診療所は6時頃には終わるため、放課後に歯科衛生士としてのアルバイトができませんでした。経済的には大きな誤算でした。

また、卒業するときには40歳を超えています。40歳の女性にとって常勤の再雇用が難しいことはわかっていました。しかし、実家に住んでいたため、歯科衛生士の資格があるので食べるぐらいはなんとかなるだろうと考えました。今から考えると、女性だったから安定した常勤の仕事を退職する決心ができたのだと思います。男性で「将来家族を養う可能性もある」と考えると、退職して大学に入学することは考えなかったと思います。

6)「止」 根無し草

大学入学を決めたとき、実家の大家さんが亡くなったために、実家を明け渡さなければならなくなりました。明け渡すことになったのは、退職願の提出後でした。たぶん、提出前でしたら入学を取りやめていたかもしれません。

父親は妹が購入したマンションに住むことになりました。引っ越しのとき、父親は入院していました。生まれて初めての引っ越しをひとりで行うことになりました。自分で決めたことなのですが、「決ったことに流されている」という感覚と「これでよかったのか」という思いでいっぱいでした。なによりも、実家がなくなってからの山口への旅立ちは、「根無し草になった」という気持ちでした。

7)「運」大きな誤算から次のステップへ

大学に入学した後に、母校の専門学校が2000年に短大になると当時の校長先生から聞きました。ちょうど大学卒業予定の年度だったので、「仕事がある」とホッとしました。大学の1年生で基礎ゼミをご担当いただいた山田富秋先生にその話をお伝えすると、短大の教員を目指すのだったら大学院に行く方がいいとアドバイスをいただきました。

しかし、母校の短期大学になるという話が中止になりました。それでも関西の大学院をいくつか受験しました。そのときは大学院で学びたいというよりも、「無所属」になると就職がさらに難しくなると思ったからです。関西の大学院を目指したのは、父親が高齢なので近くにいる方が良いと考えたからです。しかし、英語力がないために、不合格が続きました。最後に受験した大阪府立大学大学院は、学外者の入学率が低かったため、受験前から諦めていました。合格できたのは「運」です。英語はもちろん惨憺たる結果だったと思います。しかし、日本語で論述する内容は、卒業論文のテーマと重なっていたたため、ある程度は記述できました。また、入学後に「運が良かった」と感じたのは、4名の入学者のうち、3名が大阪府立大学以外の出身者でした。学内からの受験者が少なかったということが私に幸運をもたらしてくれました。

博士後期課程に進学したのも、就職が決まらないためでした。このときも幸運でした。前年度では学内の修士博士前期課程からの進学希望者が多く、学内からの希望者でさえ不合格者があったということでした。私が受験した年には、学内からの希望者は2名だけでした。1年前だったら博士前期課程にも博士後期課程にも合格していなかったかもしれません。

8)「縁」が「運」を -第2志望の人生から新しい人生へ-

大学院に入学したときは40歳を過ぎていました。助教で採用される年齢を超えています。しかし、講師として採用されるためには研究業績が必要です。そのため、いくつかの大学に応募しても面接にさえ呼ばれることはありませんでした。4年間の大学生活で貯金を使い果たしていたため、働きながらゆっくりと論文を仕上げたいと思っていたので、少し焦り始めていました。

新潟大学が歯科衛生士教育の経験がある歯科衛生士を探しているという話をいただいたのは、博士後期課程の2年生のときでした。就職について大きな転機をもたらせてくださったのは、1度だけお会いしたひとりの歯科医師でした。その先生とはお会いした後に仕事のことでメールで情報交換をしたこともあったのですが、ほとんど年賀状でご挨拶をするだけの関係でした。また、直接電話をくださったのは、勤めていた専門学校の教務主任です。その先生とも年賀状でのご挨拶を続けていました。

「ご縁」を大切にしてきたことが、私の人生にとって、大きな「運」を運んでくれました。

東京医科歯科大学や広島大学が歯科衛生士の4年生大学設立を目指しているという話を聞いていたのですが、新潟大学と聞いて最初は驚きました。また、歯科衛生士と社会福祉士のダブルライセンスを取得を目指した教育をすると説明をうけ、2つの資格を生かすことができる仕事に出会えたと思いました。

今までの第2志望の選択と、そのとき、そのときにやりたいことをしていただけの人生が1つになった瞬間でした。